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毛糸をほどく。
祖母は毛糸をほどくのが、上手かった。
毛糸をほどいている時の祖母は穏やかで、淡々としていて、知的で、数学を解いてるかのようで、もしかして祖母は理数系が得意だったのではないかと、今思う。
どんなに、本当にどんなに絡まった毛糸でも、淡々と、当たり前にほどいてくれた。
途中であきらめて、ハサミで切るなんてとこ見たことない。
だから、どんなに毛糸が絡まって、ぐちゃぐちゃになったとしても、私は安心だった。
祖母がいるから。
ほどいている祖母が、ほどき終わって、ほどいた毛糸をまん丸に巻いてる姿を思い出した。
数学の問題、図形かなぁ、を解き終わってホッとしてるようでもあるし。
だけど、大したことをした様でもない。
当たり前に普通なんだよね。
お茶が好きだったけど、別に高級じゃなくていいの、でもたっぷり入っていた方が嬉しそうだったかなぁ。
小学6年生まで一緒の布団に寝ていた私は今ても、祖母の足と足の間の股の感触と温かさが残っている。
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祖母の命日。
祖母がこの日に亡くなったとき、いい日に亡くなったなぁって思った。
祝日だから、休みを取らなくても集まりやすいしね。
息子孝行だなぁって。
病気で亡くなったのだけど。
100才までは絶対生きてると思ってたんだけどなぁ~病気には勝てなかった。
だけど最後までジタバタしなかつた。
最後まで爪が伸びていた。一番驚いていたのは本人だった。
亡くなる前、夜中かなぁ何度か目を開けては、まだ生きてるんだだなぁって、言ってたこともあった。
先に亡くなっていた息子がおんぶしてやるよって夢で言ってたらしい。
あの叔父さんなら言いそうだ。
祖母は自分の息子のことを私たちに話すとき、ちゃん付けで呼んでいた。
この時の叔父さんは、六郎ちゃん。だから私たちは最後まで、こう呼んでいた。
祖母のことを私たちは、ばばちゃん、と呼んでいた。
ばばちゃんは頼もしかったし逞しかった。
二十歳で嫁いでから亡くなるまで、毎日日記を書いていた。入院しているときも書いていた。
しかも、前日とはボールペンの色を変えて書いていたのが、何かかっこいいと思ってた。
腰が早くから曲がっていたのだけど、田植えとか稲刈りのスピードは一番で我が家の稲刈り田植えに手伝い来た人がそのスピードに合わせるのが大変だった。
孫が使わなくなった自転車で、乗る練習をしていた。乗れたら楽だと思ったらしい。
ばばちゃんは、どこからか貰ってきた乳母車に漬物石などで工夫して自分が歩きやすくしているのをすごいと思っていた。
ばばちゃんと私は一緒に出掛けることも多く仲が良かった。
この世とあの世を含めても一番だと思う。
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ぶどう液。
私が子供のころ、田植えだとか稲刈りだとか、お祭り、法事、その他もいろいろ何かと人が集り大人がお酒などを飲むような時に子供たちには一升瓶に入ったぶどう液と言う飲み物が振る舞われたんだよね。
濃い紫色とクリーム色の透明なのがあって、味も濃くて、おいしかったのを思い出した。
大人のお酒に代わる子供と母親たちの飲み物だった。
酒屋さんがビールや日本酒などと一緒にぶどう液も配達してくれていた。
嬉しかった。
この頃は大家族でにぎやかと言うより、うるさいくらいだったけど。
私に出来ること。私が!これから、やりたいこと。
私が今はまっていること。
朝ドラ『半分青い』を観ること。
新聞の連載小説『スキマワラシ』と4コママ
ンガ『ぴょちゃん』これは欠かさない。どこ
ろか心待ちにしている程。
ふるかふぇ系ハルさんの休日、グレーテルの
かまど、猫のしっぽ、これらは衝撃的な出合
いから始まった。
これらは、私が生活するための必需品。
ハルさんもベニシアも皆、ありがとう。
だから録画して、その時の気持ちで その中
から選んでは観てるんだよね~
徹子の部屋も大好きだった。ほとんどは録画
しても観たら消すのだけど、杉村たいぞうの
時のは面白すぎて保存している。これは笑い
が欲しいとき用で何度観ても楽しくなる。
思い出すだけでも笑いそうになるしね。
徹子さんの独特のキッパリ感が、スッキリ
して爽快になる。
ありがたいことだね。